その1 冬の花 呉の花 ツバキ
二代目乙女椿(市民広場) 呉の入船山記念館近くに二代目乙女椿と呼ばれる花がある。
呉の市花が椿になった由縁は、呉の山に椿がたくさん咲いているということとともに、その乙女椿に伝わる伝説があったからだといわれている。
けれども、その伝説のことを知っている人は、呉市民の中にもあまり多くないような気がする。
ましてや、こどもたちをいわんやだ。
それにはいろいろな理由が考えられるが、その話を聞いてもほとんどの人が、ありふれた悲劇のひとつ、あるいは昔話としか受け止めようとしないからだと思う
昔の人はなぜ、この昔話を語り継いできたのか
そこにこめられた思いを想像して受け取る感性と機会をぼくらは長い間失ってきたような気がする。
乙女椿伝説について自分なりに想像をふくらませ、天応につたわる天狗伝説とミックスして、創り上げたのが「天狗城綺談ー乙女椿伝説」という創作劇だ。
天応中の文化祭で発表したこのミュージカルの中では、天応中の生徒を見守る「平成天狗岩」を命名し、その岩を毎日眺めながら、すばらしい天応中学校を作っていこうということともに、天応中のがんばりをアピールしていくために「天中巫女組」というソーラン隊が天応中学校に結成され、その後、約三年間、活動を継続することになった。
そして「乙女椿伝説」も、第2章、第3章と天応中名物の創作劇として受け継がれていった。(第3章は達富先生の手で)
そして未完に終わった第4章は、平成22年に阿賀中の文化発表会で創作劇「乙女椿の奇跡」として披露する機会をなんとか持つことができた。
2005年の今年、平成大合併の完成の年で、新しく大きくなった新生「呉」の町が誕生した。
新しくなかまになる人たちをふくめて、もっと呉の人にも、呉におとずれる人にも市花である「椿」にはもっとロマンを感じてもらいたいと僕は思う。
なぜなら、椿を市花にしている町は日本にたくさんあるが、乙女椿のような恋物語をその選定理由にしているところは他にないからだと思うからだ
そのためにも、「乙女椿」伝説のことはこれからも多くの人に伝えていく機会を持ちたい。そう思い続けている。
乙女椿伝説には3つの謎がある。その謎解きを楽しみながら、YAMATOくれびと3つめの作品「やまとの咲く花」は完成しました。
これから、「やまとの咲く花」の踊りに挑戦したり、見る人により楽しんでもらうために、「やまとの咲く花」の完成までの思索(というよりは妄想といった方が正しいのかもわかりませんが)の旅を、ここに残しておきます。
ひとつめの謎は 乙女椿と伝えられる「2代目乙女椿」を見に行って驚いたのは、それがほんとうは乙女椿ではないことだ。
そこにある花は「やぶつばき」という品種の椿で、八重咲きの乙女椿という品種の椿ではないのだ。
どうして、ただの「やぶつばき」を「乙女椿」と人々は呼ぶようになったのか…?
2つ目の謎は、呉浦に咲いた乙女椿は夜な夜な白い光を出して、闇の嵐の海をゆく漁師達の道しるべとして、なんども漁師達の命を救ったという。それはなぜなのか…?昔話はその点を多く語らない。
3つ目の謎は、なぜ、少女の流れついた浜に、椿の花が咲くという結末を昔の人は選んだのかということだ。なぜ、椿なのか?。
この結末にこめられた思いはなんだろう…?
ミュージカル「天狗城綺談ー乙女椿伝説」の脚本は、この3つの謎への自分なりの想像を加えて、書き下ろした。けれども、3つめの謎については、椿のかんざしという小道具を使って、あまりに安易に解決させてしまったという思いが残っている。
なぜ、椿の花なのか…?
それこそがこの物語の核心なのだけど、それがみえてこない。
残されたその謎がずっと僕の心にひっかっかている。
そんなことを思いながら、ソーラン隊の有志を募って、ふたたび、入船山記念館の乙女椿に
私は会いに行った。
2月だというのに、乙女椿は、もうつぼみをつけ咲こうとしていた。
寒椿とよばれる椿は、厳しい冬に花を咲かせるのだということを
思い出した
厳しい冬に咲くツバキの花に、
人々はだからこそ椿という字をあてたのだという
厳しい運命の中でまっすぐに咲こうとした少女の激情を重ねたのだろうか
あるいは、ぽとりと花のまま、地に落ちる姿に少女のあわれな死を重ねたのだろうか
あるいは…?
乙女椿について、ソーラン隊の中2の女の子達が感じたことを
詩にかいてきてくれた。
その詩には、少女のまっすぐな激情への共感が満ちていた。
「この悲しみを繰り返さないように」
詩の中にあった一節が心に残った
いつの世にも差別や偏見で実らぬ恋がある
ロミオとジュリエットのように、乙女椿は、まわりの無理解が生む悲劇への警鐘として咲いているのだろうか?
(続く)